講 演: 「明治初期の子どもと学校」

 

講 師:橋本美保 助教授(総合教育科学系 教育学講座 学校教育学分野)

日 時: 平成16年10月28日(木) ? 会 場: 附属図書館3階視聴覚ホール


--目次--
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1. 文明開化の教育政策
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2. 授業はどう変わったか
2-1.教室の変化
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2-5.「問答」科の創設と形式化
3. 近代化の光と陰
3-1.就学率

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「教科書・双六からみた文明開化?新収明治初期教科書展?」によせて

グースリー2 掛け布団 羽毛布団より温かい ダニアレルギー対策 毎日洗える ホコリがほとんど出ない クイーン 掛布団 本掛けと合掛け Goosely 冬ただ今ご紹介いただきました橋本でございます。本日は「明治初期の子どもと学校」というテーマでお話をさせていただきます。
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 先ず初めに、「明治初期の子どもと学校」というテーマですので、明治初期とはどの辺りを指すのかということについて、教育政策を概観してまいります。

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1-1.明治初期とは?

 明治初期とはいつまでをいうのでしょうか。1868年に明治元年となり、明治4年に文部省が設置されます。文部省は学制取調掛という掛を置きまして、さっそく欧米の学校制度、とくにイギリス、ドイツ、アメリカ、オランダ等の教育法を研究しまして学制を起草します。翌明治5年に学制が頒布されました。学制の場合は頒布(はんぷ)といいます。それ以降を法令的には学制期と呼んでいますが、明治12年に学制が廃止されて教育令が公布されるまで、だいたい明治元年から明治12年までくらいのところを、教育史の領域では明治初期ということが多いようです。

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 我が国で初めての近代法規の「学制」についてご説明します。学制の特徴は、第一に「国民皆学」を目指しているところにあるといわれます。「学制」も、学制の序文に当たる「学事に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」というものも展示会で展示されていますので、ぜひご覧いただけたらと思います。「被仰出書」には、「学問は身を立るの財本」であるとか、あるいは「必ず邑に不学の戸なく」というふうな記述がございます。ここには有名な福沢諭吉の『学問ノススメ』に表われた「学問は、自分が立身をしていくための元手になる」というような立身出世主義の考え方や、あるいは「国民皆学」ということで6歳になった男女は就学させねばならない、というようなことが記載されています。ただし学制というのは理念や目標が示されているだけで具体的な就学の規程というのは、このあと整備されてまいります。たとえば、「学齢」ですね、就学期間はいつからいつまでなのかということは、明治8年になりまして、満6歳から14歳の8年間を学齢とすることが定められます。

 第二の学制の特徴は、学区制をとったことです。今も日本の小学校の多くは学区制を取っていますが、当時の学区制はまず全国を八つの大学区に分けまして、その大学区の中をさらに32の中学区に、一つの中学区の中をさらに210の小学区に分けることになっていました。ですので、全国に八つの大学を、そして「八つの大学区」×「32の中学区」ということで中学校256校、小学校は53,760校を設置するということが学制に記されています。これはどういう目論見で作られているかというと、人口約600人に1校の割合で学校を置くという計画でした。だいたい子どもが100人で学校一つを作るという計算で作られています。ところが学制は、それ自体は義務規程ではありません。日本に義務教育が成立するのは明治33年というかなり後でございまして、それまでは義務でもなく、罰則もありませんので、学区制は要望的、理想的なものとして掲げられたということです。では、なぜこのような非現実的、理想的なものが作られたかといいますと、そもそも学制は、先ほど申しましたように、文部省が欧米の教育制度を研究して作ったものです。学校体系とか教育行政の部分は、フランス学制、つまりフランスの教育法を翻訳して、数字を日本の事情に合わせて作っています。また、小学校に関することや小学校の教育内容は、アメリカに倣って作っておりますので、非常に外国色が濃いといいますか、翻訳調です。
 

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 文明開化のスローガンの下で、近代化は西洋化であるという認識が一般化するような政策がとられて、教育も西洋化ということを目標としていきます。その時教育の分野ではどうやって西洋に倣っていったのか、という質問を留学生の方や、現在教育開発に携わっている方からよくいただきます。日本の場合、最も早く用いられたのは、文献を通して外国の情報を輸入するという方法で、これはご存知のように幕末から洋学という形で学問の内容が日本に入ってきておりますので、幕末から始まっております。こうして書物によって、我が国の教育の近代化は専門教育から緒についており、先ほどのように「学制」の研究も他の国の教育法規を入手して翻訳するということから始まります。維新後の教育の近代化に貢献したのは、外国人教師いわゆる「お雇い外国人」です。このお雇い外国人の雇用というのが、さらに日本の専門学芸の輸入を促進してまいります。

 外国人が明治期にどのくらい来日していたかということについては、実は正確な数字はありません。政府が政府のお金で雇っている外国人についてはもちろん把握できるのですが、それでも数百人を下らない外国人が入っております。最近の研究では千人以上入っていたとか、2千人くらいとか、説は分かれておりますが、たとえば学校だけをみても、私学とか府県雇いのレベルでみていきますとかなりの数になります。

 ちょっと話はそれるのですが、専門教育から日本の教育が近代化したということをご理解いただくのに非常に分かりやすい例として、当時の各省庁の学校を例にしましょう。たとえば、工業促進のための工部省という役所がありまして、そこには工部大学校という専門学校がありました。つまり、専門の人材を各省庁がエリートとして養成するという構造が明治の最初にはすでにできあがっていまして、軍隊のことですと兵部省、法律のことですと司法省、というふうにですね、各省庁が専門の人材養成を行っていました。お雇い外国人も各省庁が雇い入れています。たとえば、工部省ですと、世界の工場といわれ、最初に産業革命に成功したイギリスからお雇い外国人を招聘して、イギリス人によって工業教育を行う。あるいはご存知の美術ですと、フェノロサがイタリアから。そして札幌農学校の場合は、農商務省の管轄でしたが、大規模開拓農業のアメリカから、というふうに専門分野毎に、当時その学問の最先端の研究が行われていた国から教師を雇い入れるという、国別の雇い入れ方をしていました。

 では数千人にも及ぶような外国人がなぜ日本に来たのか、ということが疑問として起こってまいります。ちょうど私たちが、いわゆる発展途上国に、例えばアフリカのあまり名前も知らないような国に協力に行くというような感覚で、当時外国人が日本に来たと考えられます。当時、欧米では日本に行くと風土病を罹って死ぬとか、土着民が刀を振り回しているとか、いろいろな噂が流れておりまして、皆そんなにこぞって行きたいような所ではなかったはずなのですが、千人を下らない外国人が日本に来たのはなぜでしょうか。それは給料が良かったからです。どのくらい良かったかといいますと、学制に記された授業料は5銭でした。当時、中学校の校長をしますとだいたい月給10円もらえたといわれていました。お雇い外国人の場合は、標準的な人で月給200円、非常に高給になりますと600円をもらっていますので、高給取りの中学校校長の20?60倍の給料をもらえました。次に、どうやって日本政府はそれを払っていたかという話になるのですが、当時の日本は緊縮財政で外貨もほとんどありません。もちろん日本の紙幣をもらって帰っても役にたちませんので、給料を何で払っていたかといいますと、ほとんどの場合は「銀」で払っていました。日本の銀の埋蔵量は当時は豊富で、ほとんどがこの明治初期に海外に流失したといわれていますが、それは西洋の専門学芸と引き換えに銀を支払っていたためと考えられます。こうして沢山の外国人が来日し、専門学芸を伝授しました。いまの東京大学、昔の帝国大学では、教授はすべて外国人教師で構成されていました。日本人の教授はいたのに、なぜ全員が外国人で構成されていたと申したかといいますと、正規の授業はすべて外国人教授が受け持ち、これを「正則」といいますが、いわゆる補習にあたるような授業のみ日本人教授が行うことになっていました。外国人教師が行う授業は「正則」、日本人教授が行う授業は「変則」とされていたのです。そうして専門教育は充実していったのですが、それに比べて初等教育の整備は遅れていました。そこでアメリカの小学校に倣って日本の小学校を作ろうということになったのですが、何せアメリカの小学校でやっていることが分かる人がおりません。教員養成制度を作らないことにはアメリカの小学校を日本に持って来れないということで、東京に師範学校が置かれまして、そこにお雇い教師として一人だけ、マリオン・スコットというアメリカ人を雇い入れました。マリオン・スコットからアメリカの小学校が何をやっているのか、どんなものを使っているのかを教えてもらい、さらに教材・教具をスコットを通して輸入するという形で小学校教育に着手しました。時代が下ってまいりますと留学生も多数派遣されました。彼らは帰ってきてから日本の教育の自立化を進めていくことになります。こうしてアメリカの小学校と同じ小学校を日本にも作ろうということで努力が始まりました。

 この写真はよくご覧になる機会があると思いますが、松本市にございます旧開智学校です。建物からアメリカ風にしようということで、これは擬洋風建築といいまして、このほかにも洋風・擬洋風建築の小学校が各地にぱらぱらと作られ始めます。

 次の写真は、本日からの展示にも出ている非常に貴重な資料でございます。これを本学が所蔵しているとは私も先日まで存じませんでした。明治10年の広重によるといわれております「【FY-24BK7/76】 パナソニック 天埋換気扇 本体・ルーバーセット яв∀」で、これは明治10年以前に東京に設置されていた44の学校を紹介した双六となっています。一番下の右側の「師範学校」が振り出しになっています。その隣から「坂本学校」「久松学校」「城東学校」と並んでいます。展示のものを見ていただくと校名が読めますので、ぜひご覧いただければと思います。この双六には非常に近代的でりっぱな校舎が多く、珍しい授業風景が描かれています。下から二段目の右から三番目は世界地図を使った授業ですし、上から2段目に体操をやっている授業風景のものがあり、当時の授業風景が描かれております。画面では文字が鮮明に映っておりませんので、ぜひ展示の方をご覧いただければと思います。
 

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 こういうふうな立派な校舎というのは、かなり特別でございました。りっぱな校舎は、この様なふうに小学校を作っていこうというようなモデルの意味で各地に作られていたのですが、その数は多くありませんでした。実際にはどのくらいの数の小学校が作られたかといいますと、学制が頒布された翌年の明治6年には12,000余りの小学校がありました。そのときの就学率は男子が39.9%、女子が15.1%、平均して3割にも満たない28.1%というような数で、日本には12,000校くらいの学校があったのです。さらに2年経ちますと、学校数は倍になりまして24,000、就学率は男子が50.8%、女子が18.7%、平均して35.4%となります。男子はすでに半数以上が就学しますが、女子はまだ18.7%しか学校にいっていない。こういうことが実態でした。この数字をどう見るかですが、皆様方いまの小学校の数はご存知ですか。だいたい何校くらいでしょうか。ピークは昭和32年で26,988小学校がございまして、そこから減ってきております。昨年の統計では23,633校ということで、明治8年の時点より少ないのです。そういうふうに見てまいりますと、学制で示された53,760などという数は机上の空論であって実現不可能な数だということがお分かりいただけると思います。53,000以上も小学校を作るのは不可能なことだとお思いかもしれません。昨年大石先生が寺子屋の話をなさったと思いますが、江戸期にはあったと判っているだけで15,000の寺子屋がありました。実態としてはその5倍、75,000位あったとも言われています。江戸時代に寺子屋がそんなに沢山あったのに、明治になって学制を頒布したらいっぺんに小学校が12,000に減ったというのが実態です。ということは就学率が落ちているのではないかということになるのですが、寺子屋は、男子は期間さえ問わなければ、何がしかの期間、皆ほとんど通っていたと考えられています。識字率についても、最近では研究が進みまして、一揆の訴状を研究した方が、皆自分の名前は自分で、直筆で書いているので、江戸時代の識字率はかなり高かっただろうと言っています。明治になって学制が頒布されると、学校の数は減り、就学率も落ちるという事態が起こったということになるのですが、これはなぜかといいますと、学制は授業料を徴収するということにあります。受益者負担の法則で、立身出世主義ですから、自分が出世するために自分がお金を出して学校に行く、こういう建前です。寺子屋の場合は、お礼の気持ちを師匠に渡す習慣はありましたが、授業料というものはございません。江戸時代は自分の生活にあわせて、自分の生活の時間の空いたときに手習いをするというスタイルです。近代以降の学校中心主義の学校社会がスタートいたしますと、それについて来れない家庭の子どもは学校に行けません。その少ない、4割にも満たない子どもたちが通った校舎はどのようなものだったでしょうか。先ほど開智学校の美しい校舎を見ていただきましたが、明治8年の時点での統計がございます。これを見ますと明治以降校舎を新築した学校は18%、どこかに間借りをしていた学校が82%もございます。学校に行った子どものほとんどは、寺院の一室であるとか民家、これは馬小屋の2階だとか、あまり民家に空いている部屋はありませんで、そういうところを間借りして、ほぼ寺子屋式の授業を小学校という名前でやっていたのが実態であろうと考えられています。

2.授業はどう変わったか

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 では次に、新しく名前が「小学校」となった学校では、授業風景はどのように変化したのでしょうか。教室についても従来いわれていますように、まず名前が変化します。学校そのものが、「寺子屋」や「手習い塾」から「小学校」という名前に変わってまいりますし、「師匠と寺子」も「教師と生徒」に、寺子屋で行われていた「個別指導」も学校が始まると「一斉教授」というやり方に変わってまいりますし、テキストも「往来物」と呼ばれていたものから「教科書」へと変わりました。教材・教具にいたしましても「筆と紙」が「石筆と石盤」となり、使うものもずいぶん変わってまいります。明治になって寺子屋が小学校と名前を変えることによって、名称やあるいはいろいろなものの形態が変わったということが言えるかと思います。

 授業風景についても、どのように変わったのか見ていきましょう。明治初期の授業風景をイメージしていただくのは実は非常に困難です。なぜ難しいかといいますと、私たちが抱いている明治の学校のイメージは、たとえば「おしん」だとか「二百三高地」という映画に出てきたようなわりと粗末な「木」で作られた小学校ですね。来ている子どもは、いがぐり頭で木綿の服を着ていて、教室の中は今でも開智学校等古い学校に行くと残っている、小さい木の机と椅子が置かれている、そんなイメージを私たちはもっています。実はそのイメージは、明治後期に就学率が大幅に上がって、子どもを大勢受け入れなくてはならなくなったときから、ほぼ昭和初期の頃までの小学校です。ですので、もし明治初期の授業風景を再現しようとすると、教材教具も当時のものが必要ですし、子どもに汚い格好をさせられません。いま残っている絵を見ていただくとお分かりいただけると思いますが、このような感じです。これはたまたま理想とされた授業風景ですので、実態とは少し離れておりますけれど、少なくとも理想とされた授業風景の中に実態も描かれております。これを見ていただきますと、たとえば教師はわざわざ二人描かれているのですが、洋装の先生と和装の先生が描かれています。子どもたちも洋装と和装の子どもたちを混在させて描いているのですが、いずれも立派な格好をして来ています。洋装の子どもたちはほとんどいなかったと思われますが、和装の子どもたちを見ていただきますと、羽織、袴それも上等なものです。生徒は椅子に腰かけていて、主な教具は掛図と鞭が描かれています。ちょっと掛図を見ていただきますと、掛図にはいろいろな種類がありまして、単語図、連語図、九九図、博物図など多くの種類があり、現在も使われている地図もございます。これは単語図といわれるものです。掛図もアメリカの掛図を日本風にアレンジして、こういうふうなものを文部省や師範学校で作って、使っていました。これは明治7年に師範学校が作った掛図で、たとえば「イ」のところを見ていただくと、「糸」の絵が描いてあります。「糸は蚕または綿・麻にて製し、人の着物に用いるなり」と書いてあり、糸のところを指しながらこういう説明をしていました。また別の図を見ていただきますと、これは連語図という掛図を使った授業なのですが、先生が鞭で指しながら教授しています。明治初期の場合は、私たちがイメージしている明治末期の場合と違って男女が同じ教室にはいません。この図ですと手前のクラスが男子のクラスで、奥のクラスが女子のクラスとなっております。また、この図を見ていただくと目に付くのが、机と椅子ですね。かなりりっぱで大きな机が用意されていますが、これはアメリカの学校で使っていた机に倣って作った特注品です。

 教具も石筆と石盤を使っています。イメージとしては黒板を小さく切り取ったようなもので、石筆も石盤も元は輸入品です。石盤はスレート石という石を使って、ロウ石という白墨のようなもので上から書いて、こちらの丸い綿ビロードを張った石盤拭きで消すという、黒板と同じ原理のものなのです。明治8年に宮城県でスレート石が発見されて以降、日本でも作られるようになりました。

 この図は「教え方」を書いた教授本からとってきたものですが、単語図を教えている教師が描かれておりまして、生徒が大きな机で、りっぱな椅子に座っており、先生が単語を指しながら教えています。画面の字がちょっと読みにくいのでご説明いたします。どういうふうに単語を教えていたかというと、まず鞭である単語を指しながら一人ずつ指名してこれを読ませます。そして全員で復唱した後、では一列目から順番に読んでいきましょうと、今度は列単位で同じことを読んでいく、という教授の進め方が説明されています。  少し見えにくくて申し訳ないのですが、こちらは珍しい「教場指令図」という図です。当時アメリカでは「教場指令法」という規則が作られていて、それを翻訳、適用して、「教場指令法」を定めた府県が多かったようです。これはどのようなものかと申しますと、生徒は学校に来ても今のようにばらばらに教室に入らないで廊下で待っていて、そして全員揃って時間になったところで、行進して教室に入場します。すべてが一、二、三、四という号令によって、きちんきちんと進められていくという決まりなのです。

 いま画面で見ていただいている図は、続きものの図ですが、「一」に当たるのが真ん中の列の上の段です。これは「石盤、書物などの取り出し方」と書いてあります。始業時に石盤と書物を取り出す時、まず号令「一」がかかりますと左手で机に手をかけます。号令「二」というのは一番右の列の下ですが、左手を添えて蓋を開ける。次の号令「三」になりますと、真ん中の列の下ですが、石盤を取り出す。そして上の号令「四」で蓋を閉める。こういう動作が描かれています。教授本にはこういうふうにやるのだよというモデルが掲げられていました。ところが我が国の場合は、教場指令法を制定しても、これをしない学校が多かったようです。規則だけが作られた、というのが実態だと考えられています。以上のように、教材、教具はアメリカの学校で使っていたもので、教場指令法のような規則までもアメリカから輸入したものだったのです。
 

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 次に教育内容、カリキュラムに関わることはどうなったのか、ご覧いただきたいと思います。先程、校舎や授業風景が多くの場合寺子屋のままであったということをお話しました。寺子屋では「読み、書き、算盤」という教育内容でしたが、明治になりますとアメリカのカリキュラムを翻訳したものですから、アメリカの学校の教科目に似た、翻訳調のものが入ってまいりました。学制に示された教科が画面に出ていますが、綴字、習字、単語、会話、読本、修身、書牘(しょとく)、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌、ただし唱歌は当分これを欠く、というものでした。ここまでが最初の4年間、下等小学で教授する教科です。上等小学になりますとさらに加えて、史学大意、幾何学罫画大意、博物学大意、化学大意、つまりここまでが次の4年で、そして最後の外国語ノ一二、記簿法、画学、天球学、は状況によって加えてもよい、という規定が学制の中に書かれています。これらを教授するためには教科書が必要になってまいりましたので、翻訳教科書が使われました。アメリカから輸入した教科書を翻訳して日本の教科書として使っていたのです。
 

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 画面には、翻訳教科書の一つの例として小学読本とその基になったウィルソン・リーダーを並べてもってまいりました。これもデジタル画像にしますと非常に読みにくいので、展示されている原本をお帰りの際にご覧いただければと思います。ウィルソン・リーダーの上の段に、何が書かれているかといいますと、レッスン7で野球をしている場面が描かれています。「彼らはボールを蹴っているね。あなたはそれが見えますか。」「いいえ、あれは蹴っているのではないよ。何か棒で打っているよ。」「そのボールは固いのかな。」「いや柔らかいから大丈夫、当たったって大丈夫だよ。」といった会話が英語で書かれているのですが、それが日本語に翻訳されますと、小学読本では「彼れは、球を蹴て遊べり、汝は、それを見しや」「私は、棒を以って、球を打つを、見たり、其球は、堅きものなるや」「これは、柔かな球なるゆえ、人に当るとも、傷つけることなし」と、こういう形で翻訳、直訳されています。滑稽なのは、さし絵がちょっと見にくいのですが、右側は普通の野球をしているところですけれども、左側はなんと三人がバットを振り回していまして、ボールが2個も宙を舞っています。まったく野球を理解していない人が、翻訳して書いたと思われる教科書になっています。下もウィルソン・リーダーで、「神(ゴッド)」から始まるところなのですが、「おお神よ、夜が平和で安息のうちに過ぎていき、朝になって美しい光が私たちを照らし、私のおとうさんが笑顔を見せてくれたとき、私は感謝の気持ちでいっぱいになります。」といったことが書いてあるのですが、それが翻訳されますと「天津神、再拝、昨夜も、無難に過ぎて、大幸なり、今朝、夜明けて、光りを下し給ふにより、父母の息災なる顔を、見ることを得たり、多謝」という翻訳調になっています。これを小学生が小学校の読本として使ったという、こういう時代が翻訳教科書の時代でした。
 

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 先ほどは教科目を見ていただきましたが、学制に示されたのが教科目だけでしたので、多くの人は教科目の名前だけ見ても何をどうやって教えるのか分かりませんでした。現場では従来通り、読み・書き・算盤というような寺子屋式の授業をほとんどの場合がしていただろうと考えられます。そのうちに文部省は、「小学教則」といいまして、いわゆる今の学習指導要領の原型に当たるようなものを提示いたします。「小学教則」は、本文は学習指導要領のように文章や箇条書きなのですが、ここではそれを表に直したもの「小学教則概表」というものを見ていただきます。どのような教科が作られているかといいますと、文部省の場合、綴字と書いて「カナヅカイ」と、フリガナをふってあるのでその通り読みますが、カナヅカイ、テナライ、コトバノヨミカタ、ヨウホウサンヨウ、ギョウギノサトシ、コトバノソラヨミ、コトバヅカイ、ヨミカタ・・・というふうに煩雑な教科目が並んでおります。

 文部省が作った初めてのカリキュラム、小学教則の第一の特徴は、自然科学、数学の内容を非常に重視しているということで、小学校の全授業時間の40%が自然科学の教授に当てられています。その他の特徴としては、海外の知識あるいは道徳、といいましても後の修身ではなくて、権利や義務の概念、自由の概念というような市民道徳が説かれて、そういうものを志向している特徴がございます。しかし程度が高すぎてとうてい普通の小学校で行えるものではありませんでした。実際、一般の小学校に明治の初期に普及していったのは、東京師範学校が作ったカリキュラムだといわれています。先に紹介しましたマリオン・スコットという外国人が、アメリカの初等学校カリキュラムを紹介し、東京師範学校で小学校向けのカリキュラムを作った。こちらは東京師範学校で作った明治6年の小学教則ですが、このカリキュラムが全国的に普及していきます。このカリキュラムの目玉は何かといいますと、「読物」です。一番左にあるのですが、読物がなぜ目玉になったのかといいますと、読物という教科は地理、歴史、修身、物理、化学といった内容のものを読ませるという総合的内容教科となっていましたので、全体としてのカリキュラムはすっきりとして、読物の時間の中で内容教科が教えられるという形になっています。そしてこの読物とペアになっていて当時のカリキュラムとして非常に重要なものが、左から5番目にあります「問答」という教科で、問答は読物と同じ教材を使ってその内容を問答の形式で教授するという明治初期のカリキュラムの大きな目玉になる教科でした。
 

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 この問答という教科について、少し説明いたしますが、教科目ですので問答科と呼ばせていただきます。問答という教科はアメリカ人スコットが、アメリカのオブジェクト・レッスンズというものを日本に紹介し、オブジェクト・レッスンズの語を翻訳して「問答」としました。

 オブジェクト・レッスンズとは何なのかと申しますと、これを説明すると教育原理の授業になって1時間必要ですので、簡単に説明させていただきます。当時欧米では、学校の教授法の第一原則というのは、ペスタロッチ主義という、ペスタロッチという人が説いた教授原則に基づいていました。たとえばですね、オーラル・ティーチングなどというのは、現在も初等教育原理の大原則ですが、小学校の児童に対して会話形式で授業を進めていく。つまり前近代的な、書物中心の学習、日本の場合もイロハが読めるようになると四書五経や往来物を意味が分からなくてもいいから読みなさい、暗唱しなさいとやらせていましたが、こういうやり方はダメだということです。ペスタロッチ主義によると、まず会話によって分かるように教えなければなりません。オーラル・ティーチングだとか、あるいは直観教授といいまして、先程ご覧いただきました掛図なども、この直観教授の原則を履行するための実物教授として用いられました。直観によって、まず理解する。外部のものを内面化するのは直観である。したがって概念から教えてはダメで、前近代的な暗記だの、意味も分からず素読することはいけない。簡単に言えば、まず最初に分かったうえで概念化するという方向をとるのだというのが、ペスタロッチ主義の教授原則です。授業のときよく例に出すのは、「赤い」、つまり色の赤をどう教えるかです。皆さんにきくと誰も教育原理など習っていなくても、「赤いものを見せてこれが赤よね、といえばいいじゃないですか、先生」と言います。その通りで、赤を直観として感じ、それに赤という概念をつけて内面化させるということをやるのが、いわゆる直観教授です。ところがですね、たとえば目が見えない方に「赤」を教えるときどうしますかと学生さんに聞くと、とたんに困ってしまうのですね。赤をどうやって教えたらいいか、言葉で「情熱の色」と教えようかとか、いろいろ考えます。このように人があることを内面化するときに、どのようにそれが行われているのかということを、私達はあまり意識はしていないのです。では先に概念を教えたらどうか、たとえば見たことがない植物を百科事典で引いてみましょうといって、たとえばザクロの項を読んでみると、何とか地方に生息する何々科の植物で、どんな実をつけ・・・、そこをたとえば暗記します。暗記してそれがテストに出た時、その説明は何の説明かと問われたらザクロと書けば、この人はザクロを理解しているということで丸がもらえるかもしれません。ところが、この人が町を歩いていてザクロの実を八百屋で売っていてもそれがザクロの実だと分からない、ということが起こることはよくあります。つまり概念から入るということは、子どもの認識過程に合った教授ではないのではないという考え方で、ペスタロッチ主義の教授法の場合は概念から入るということを否定します。

 明治の初期にこのペスタロッチ主義を輸入した日本人は、暗唱なんかやってはいけない、素読なんかやっては前近代的だということで、近世までの教授法を否定して、いわゆるペスタロッチ主義に基づく学校教育をとり入れたわけですね。それを入れたのはいいのですが、問答という教科で直観教授をやりましょうと東京師範学校で考えて、問答科という科を作った。ところが、いまの総合学習と同じで、作った人は一生懸命考えて、こういう理念をこういう科の中で、こういうふうに体験的に、教科横断的にやったらいいのではないかと作ったのですけれども、それを小学教則として受け取った現場の先生たちは、一体この教科は何をするのだろうと、困ってしまったわけです。

 そこで、この問答科を行える先生は少なかったので、文部省は教授本を作りました。この時間にはこういうことをやったらいいでしょうといった一種のハウツー本です。見本を示したら皆それができるだろうということで、まず文部省が、当時オブジェクト・レッスンズがはやっていましたアメリカの教授法書を翻訳しました。画面はノルゼントという人の、“Teachers’ Assistant”という本です。左側のページの下から4行目から問答が始まるのですね。「私は何を持っているかな?」と先生が聞いて、子どもが「羽根です」と答えると、先生は「そうですね。ではこの羽根をどこから持ってきたのかな?どこにあったのかな?」と聞きます。生徒は「それは鳥」、「鳥のものです」と答える、といった問答が繰り返されていきます。

 この発問で授業導入するような例の部分を翻訳したものが次の画面です。これは明治9年に文部省から出されましたもので、今見ていただいた部分が右のページの7行目から始まりますが、先生が「今我ガ手中ニ持スル物ヲ何トカ為ス」と聞くと生徒が「之ハ羽ト為ス」と答えるのですね。先生が「羽ハ之ヲ何者ヨリカ得ル」と問い、生徒が「鳥類ヨリ得ル所ナリ」と答える。先ほどの翻訳教科書とまったく同じパターンの翻訳教授本ができあがったわけです。これが広く教師の間に流布しました、何せ問答って何をやるか分からないものですから。教師がこれを読んだ結果どのような実践を教室の中で行ったかといいますと、実は一般的な当時の日本人は「問答」と聞いて、何をイメージしたかというと、いわゆる「カテキズム」をイメージしました。カテキズムとは宗教的な教義の問答集のことで、日本ですと禅問答のようにはじめから想定される問いと答えが型通り決まっている、そういうものをイメージしました。教室で先生はこれを使って「いいか、先生がこれからこう聞くから、君、こう答えろ。」となるわけです。ではそのとおりやってみましょうと先生が聞いて、次の子が答えると、「よくできました。では次はこう聞くから、あなた、こう答えて」と続くのです。こういうふうに、問いと答えを形式的に覚えて、それをくり返す時間になったと考えられています。なぜ、そう考えられるかといいますと、当時は試験をやっていました。等級制と申しまして、半年に一級ずつ進級するのですけれど、進級するときに進級テストをしていました。そのテストの試験問題や成績表に、「問答」というのがあるのです。つまり、問答のテストをやっていたのです。問答ですから先生が発した問いに対して、ちゃんと答えられるかを採点していたのです。そういうふうに問答をテストとしてやっていたということは、従来の、本来目指されていたオブジェクト・レッスンズが形骸化していて、何の役にもたたなかったということの証明なのです。

 このように教則とか、時間割とか、学校の校舎とか、机とか、そういう形のあるものは非常に短期間にアメリカに倣って整えてきたことがお分かりいただけたかと思います。この他にも、「唱歌」の例は有名ですね。学制には唱歌という授業が設けられていたのですが、「当分の間之を欠く」とされていました。歌を歌うなどということは楽しみごとで、学校で楽しいことはやってはいけないというような考え方があってなかなか定着するまでに時間がかかった教科です。けれども中には唱歌を行った学校もありました。どのようなふうにやっていたかといいますと、「唱歌」は歌を唱えるわけだから、皆で裏山に行って一人ずつ大きな声で百人一首を叫びなさいという試みがあったり、例をあげれば暇がないのでやめておきますが。このようにその時間を設けてそれらしいことをやったけれども、本来その教科で目指していたようなことがされていたかどうか、非常に疑問であるというのが明治初期の小学校の本当の姿ではないかと思います。

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 ところがご存知かもしれませんが、教育関係者の間では、これは実態ではなかったというのが通説です。実態ではなかったというのはどういうことか、では嘘なのかといいますと、嘘ではない。就学率は学齢児童数分の在籍児童数×100の数字ですから、戸籍制度が完備されている限り学齢児童の数はごまかせませんので、就学児童数をどういうふうに報告するかということが、重要になります。この数字について嘘を報告したということは若干あったかもしれませんけれども、全体としてそれほど誤った数字ではない。つまり、数字としてはけっこう正しいのですが、実態を反映していないということです。これはどういう意味なのか、そのからくりを最後にお話してみたいと思います。

 当時は国家政策としまして就学率を上げることが至上命題でしたので、行政機構の上から下に強い圧力がかけられます。文部省は県に、県は郡役所に、郡役所は市町村役場に。とにかく就学率を上げよ、上げよ、上げよと、強烈な圧力をかけます。具体的には、たとえば一月単位で就学率を小数点第2位くらいまで出して、全村の、村の中では全学区域の就学率をリストにしてブラックリストを作ったり、ベスト3、ワースト3を作ったりして、徹底的に競わせるという方法をとっています。競わせると言っても、どうやって学校に行ってない子を行かせるようにするのかといいますと)、「就学督促」という活動が行われたのです。就学督促の方法としてはまず告諭、説諭というものがあります。これは地方官が民衆に、学校に行くといかに良いことがあるということを諭すということでした。「督促業務規程」を各府県や市町村が定めたりしました。各自治体の中には、学区取締とか、学務吏員がいますので、これは彼らがどうやって督促業務をするかという、事細かな督促業務の内容を定めた決まりです。具体的にいうと、学校に来ない子の家に行って説教してまわるとか、このままだと村八分にされるといって説得するとか、いろいろなことが行われたのですが、村によっては巡査が就学児童を取り締まるような村もあったといわれています。この他、授業料が払えなくても学校に来させたら、その分就学率が上がるじゃないかということで、寄付金を募って学校を作ったり、休日や夜間に学校を開校して、就学させた例もあります。あるいは村人が楽しみにしている村芝居とか村祭りを禁止して、そこにかかる施設やお金を学校教育にまわさせるとか、優等生を表彰するとか、考えられるありとあらゆる手段を使って就学児童を増やそうとしていました。嫌な例としては、ワースト3の学校の校旗を黒にしなさいと辱めを与えて、何とかこれを脱出しようという運動をその地区で行わせていた所もあります。就学児童を区別する、これはよく出てきますけれど、就学している子どもと、していない子どもを区別することも行われました。いまの、校章の元のようなものですけれど、これは就学標といいまして、学校に行っている子どもに、胸につけるバッジのようなものを配ります。子どもを見れば学校に行っている子はつけている。行ってない子はつけていないのですぐ分かります。あるいは就学札というのがありまして、これは表札みたいなものですね。学校で子どもの表札を配って、その家に行くと学校に行っている子の家には子どもの表札がかかっていて、行ってない子の家にはそれがない、というようなことをやったりして、就学による差別という対策をとって少しでも就学を増やそうとしていました。

 ところでこの就学率をなぜこんなに上げなければならなかったのか。日本の国がこんなに徹底的な就学率アップ競争というようなものを全国的に展開させて、就学率を上げる必要がどこにあったのか。この主眼はご存知のように条約改正のためですね。条約改正にあたっては、いわゆる不平等条約を、関税自主権を取り戻すとか、治外法権を廃止するとか、そういうことをしないと近代国家として対等な貿易もできなければ、豊かにもなれません。それを一日も早く実現したいという国家の目的がございまして、そのときに近代国家となった指標として出てくるのが就学率です。現在でも、教育援助や教育協力で、どのくらい効果があったかが問われると、学校をこれだけ作ったとか、就学率が何%になりましたとか、結局数字でもって教育効果を測るという方法を採っています。就学率は国際的に重要な指標となっているわけです。それで明治の日本も過酷な就学率アップ競争を展開したわけですが、ところがこれもある程度までやると、もう飽和状態になります。どんなに恥をかいても、うちは学校に行かせられないという家は、どうやっても子どもを学校にはやらないのです。村の行政関係者はなんとかして0.01%でも就学率を上げなければいけないということで、違う対策を講じます。その対策というのが二番目の就学猶予、就学免除です。これは非常に大きな問題をはらんでいるので、詳しくお話しするとこれもまた1時間かかるので、ざっと説明させていただきます。就学率は学齢児童数分の在籍児童数ですから、この数字を上げるためには、分母を減らすか、分子を増やすかです。在籍児童数が飽和状態になってきたということは、分母を減らせばいいじゃないかということになりますが、しかし戸籍制度が完備されていて、子どもの数は把握されているわけですから、そんなに簡単に嘘の報告をするわけにもいきません。ここで頭を働かせた村の行政官は、例外を作ればいい、就学督促の対象から除外する人を作ればいいということを考えました。これが就学猶予、免除の規程です。「うちは貧乏で、とてもとても学校にやれません。」という家には、では役所に行って猶予願を出しなさい、猶予願を出したらお上が猶予の許可をくれるから、というわけです。そうするとパッとそれが広まっていきまして、こうこうこういう理由で、就学を猶予していただきたいと願を出せば役所が許可を与えるわけです。この規程は、最初は市町村が独自に作って運用していたのですが、国家として、法令によって認めることになっていきます。明治19年に「小学校令」が出たときに、「疾病、困窮、その他の止むをえない事由」のために県令が就学を猶予することができるという規定が、その中に明記されました。明治23年には免除についても明記されます。明治33年の時点で規定の内容が変わりまして、条件が「疾病、身体の障害、保護者の貧困、その他」となっていきます。いずれにしても貧困という理由は、最初からずーっと「貧窮」、「貧困」と規定の中にありまして、貧乏だと子どもを学校にやらなくてもいいということが公に認められていたわけです。この貧窮、貧困という文字が就学猶予や免除の規定の中から外されるのはいつ頃になるのか見当がおつきでしょうか。ちなみに授業料免除になるのは、つまり日本で小学校の授業料を免除するという免除規定ができるのが明治33年です。そこで一応授業料はなくなりますので、授業料を払わなくても学校へ行けることになります。ところが就学猶予、免除の規定から「貧困」という理由が外されるのは昭和16年です。昭和16年になってはじめて貧困を理由に子どもを学校にやらないということができなくなったのです。

 この猶予、免除規定は、もっと深刻な問題を日本の教育の中に落としてきました。それは日本の場合、障害児教育を整備することが、この規定が原因で非常に遅れたということです。つまり猶予、免除の規定の中に「障害を持つもの」という条件を明記しましたので、障害児のいる家の方は当時あまり人目に出したくないということで、免除願を出される。そうすると日本の学校に障害者が来ないという状況になります。だから行政や学校は何もせず、する必要がないわけですね。対策を講じる必要もなければ、その人たちの教育権について考える必要もないので、障害者の教育権、貧困家庭の場合もそうですが、彼等の教育権が剥奪されてきたという歴史があるわけです。ちなみにこの障害者の教育については、盲学校、聾学校については比較的早く学校が作られたり、民間の努力などによって、徐々にですが実現されていきますが、養護学校は非常に遅れまして、戦後になっても養護学校の義務化はなかなか実現しませんでした。肢体不自由であるとか、精神薄弱であるとか、そういう障害をもった人たちや、重い病気の子どもたちに対して、猶予や免除なんてとんでもない、権利を保障しなければいけないのだから、希望があればたとえ学校に来ることができない人でも、教師が出向いて訪問教育をしなければいけないというような、これは今の発想ですけれども、このようなことは1979年くらいになってようやく実現します。法令的には昭和40年代まで、この猶予規定、免除規定は障害児の方については生き続けてきたのです。

 以上のように就学率アップ競争は、一方では条約改正も成し遂げ、皆がきれいな校舎の学校に来て近代的な教育内容を学習するという近代教育を実現させていきながら、もう一方では弱い立場にある人の教育権をどう保障するのかという重要な問題を見えないところにしまったままで進められてきました。こうした問題を陰に留めてきたこともまた日本の教育の近代化のまぎれもない一つの側面であったということです。

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時間もそろそろ迫ってまいりました。最近私、新しい試みをしている学校、つまりオープンスクールだとか、総合学習の先進校といわれるような新しい教育の実践校を見に行く機会がございまして、あちらこちら見に行かせていただいているのですけれども、そうしますとそれらに共通しているところがあることに気づきました。この図は寺子屋の様子なのですが、新教育の実践校は実に寺子屋に似ているのですね。なぜかといいますと、それらの先進校、オープンスクールあるいは総合学習の実践校などでは、じゅうたんを敷いている。これはほとんどの学校に共通しています。冷たい床ではなくじゅうたんを敷いて、子どもにぺたん座りをさせています。そして座卓を用意しています。子どもが机を持ち運んで好きな場所で自己学習したり給食を食べたりしている所もあります。学習形態によって先生が指示するように座卓を動かしてじゅうたんの上で学習している光景はよく見ます。しかも最近よくやっているのは、学年の壁を取り払って、例えば一学年の全ての学級を一緒にして同じ科目の授業を一遍にやって、プリントか何かによって進度別の個別学習をやる。そうすると先生方は一斉教授と違って一人の先生が大きな指示をするとしても、残りの先生方が個別に見てまわるというような形態になる。いわゆるTT、チーム・ティーチングです。江戸時代は多くの寺子屋がチーム・ティーチングでした。先生が助手のような存在を使って、個別指導をする。こういう現在の実践を、私のような歴史家が見ると、誰も寺子屋を真似ようなんて思ってやっているわけではないのですから、これはひょっとしたら近代が取りこぼしてきたことを、文化的に必要なものとして取り戻そうとしているのではないかと、そんな気がするのです。

 その他にも、たとえば、斎藤孝さんの声に出して読む日本語がはやったり、読み聞かせもいろいろなところでやっていますけれども、これもいわゆる「素読」であるとか、一種の「暗唱」、ペスタロッチ主義では否定された「暗唱」なのですが、これらは最近では見直され、注目されています。教育学の方では「学びの身体化」という言い方が流行っておりますけれども、そういうことは実際には非常に長い時間がかかって培われてきていた文化的な学びの要素だったように思います。こういったことが近代化を経たいま、失われた学び文化の取り戻しとして為されているのではないかというふうに感じます。

 今日の話は非常に駆け足で拙いもので申し訳なかったのですが、こうして見てきますと明治以降の教育というのは、形を整えることとか、外国に倣うことを重視しすぎていまして、とくに教育学という研究分野をみてもそう思います。明治時代以来、日本の教育学は外国教育の研究をしてきました。戦前はドイツの教育学の影響を強く受けましたが、今でも「イギリスでは・・・」とか、「フランスでは・・・」とか、そういう外国研究というのを一生懸命しています。もちろんこれからも外国研究、比較研究は続いていくと思います。ただ、今のような新しい教育の試みが昔返りをしているような場面を見たりしますと、ひょっとしたら今の時代が一番日本の・・・ 教育を考えることを必要としているのではないかというような、昔の話ばかりしている者の最近の教育に対する感想でしかないのですが、そんな気がしているところです。

 ご清聴ありがとうございました。(拍手)

≪追記≫

未仕立 正絹 丹後ちりめん 寿賀喜織 地紋入り白長襦袢地本稿は、当日の講演内容をテープ起こしした原稿に橋本が加筆・修正を施したものである。内容、資料については一々出典を示すことを省いたが、以下に参考文献を挙げておく。

 なお、講演にあたっては附属図書館長細江文利氏をはじめ図書館職員の方々にお世話になった。また、情報サービス課長増田晃一氏にはテープ起こしや校正でお手を煩わせたほか、講演から本稿作成に至るまで格段のご高配を賜った。末記ながら記して謝意を表したい。

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